70年ぶり発見「武蔵」に見る第1級のハイテクパワーと造船技術

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「武蔵」を発見した-。米マイクロソフト創業者のポール・アレン氏がフィリピン中部のシブヤン海で旧日本軍の戦艦武蔵を発見したとするニュースは、日本はもとより世界を驚かせた。

アレン氏はツイッターで船体の写真を公開し、インターネットで映像も中継もした。

終戦から70年目の発見は、旧帝国海軍の敗北を決定づけたレイテ沖海戦の歴史を甦らせるとともに、巨大戦艦が誕生した時代背景にも焦点を当てそうだ。

当時の日本の最先端技術を集めた大和型戦艦「武蔵」。そのハイテクパワーと戦前日本の造艦技術に迫った。

 

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全ては46センチ砲のため

 

戦争とは、必要な時に、必要な場所へ、必要なだけの戦力(火力)を投入できた者が勝つ-。

武蔵も大和も、決戦時に巨大な46センチ(約18インチ)砲弾を敵艦にたたき込むために誕生した。その46センチという数字には大きな意味がある。

大和型の構想が生まれたのは昭和9年とされ、当時はロンドン海軍軍縮条約により旧式戦艦の代艦建造はできなかったが、日本では軍縮条約の期限が切れる昭和11年に備え、新型戦艦の構想を練っていた。

 

ひとつの指標となったのがパナマ運河

 

当時は大艦巨砲主義の時代で大きな砲はより遠くへ弾を飛ばせると言うことは、敵の弾が届かない位置から敵を一方的に粉砕することが可能だ。

だが、巨大な砲を積むためには巨大な船体が必要となる。

ただし米戦艦は、大西洋と太平洋を行き来するのにパナマ運河を使うため、運河を通れないような巨大戦艦を造るのは非常なリスクを伴う。

同運河を通過できる戦艦は、当時の造艦技術では40センチ砲搭載艦程度が限度とみられていた。

一方日本は、このパナマ運河による制限(パナマックス)を考慮する必要はないので、建艦競争になればアメリカの工業力から見て数で劣勢となるのは必至だ。

それを質で、つまり砲の大きさで補おうとして誕生したのが大和と武蔵という巨大戦艦だった。

その46センチ砲は、最大射程4万メートル、砲身3つを収めた砲塔の重さは約2800トンで、秋月型駆逐艦1隻とほぼ同等の重量。

弾の重さは1.4トンで普通車なみの重量があり、その威力は、3万メートル先にある約40センチの装甲を破壊できたという。

大和・武蔵の機銃類は鉄板で覆われているが、これは防弾用の装甲ではなく、主砲発射時の爆風から乗員を守るためのものだった。

爆風盾のない甲板での影響を調査する実験では「被験者」の小動物は全滅したとされる記録がある。

砲身の長さは約21メートル。この主砲を加工した巨大な旋盤は、今も兵庫県内の企業の工場で現役として使われているというから驚きだ。

当時、この砲身を工場から建造中の大和と武蔵に運ぶため、専用の船(補給艦「樫野」)まで造られた。

 

大砲の「目」はニコン製

 

砲がいくら強力でも、当たらなければ意味はない。

当時の砲戦は砲弾を山なりの弾道で撃ち込む遠距離砲戦で、狙いをつけるにあたって重要なのは距離の測定だった。

大和に装備された測距儀(距離計)は当時世界最大で、遠方測距の正確さの決め手となる対物レンズ間の距離(基線長)は約15メートル。

光学技術の結晶ともいえるこの測距儀は、当時の日本光学工業(現ニコン)製だった。

このころは「陸のトーコー(東京光学機械、現トプコン)・海のニッコー(ニコン)」と言われ、ニコンは海軍の双眼鏡など光学製品を専門的に開発、納入していた。

測距儀で得られたデータは、方位盤射撃装置に送られる。これは大小の金属歯車の塊で、アナログコンピューターの始祖。

距離や方位のほか自分の速度と目標の速度、風力に地球の自転速度までを入力分析し、砲の向きを制御する。

当時、戦艦を持つ米英独などわずかな先進国にしか無い、ハイテクの塊だった。

 

苦手な技術はどうだったか

 

一方で諸外国に及ばなかった技術もある。そのひとつが溶接技術。船体を縦割り状態で製作し、最後に溶接でつなぎあわせる現在の建造方式は、このころの日本では不可能だった。

果敢に溶接工法に挑戦した潜水母艦「大鯨」(のちの空母「龍鳳」)建造では、船体全てを電気溶接で建造するという画期的な試みを行ったが、溶接に従い歪(ゆが)みが発生。

艦首と艦尾が反り上がるように歪み、ついには船体を切断して矯正するという事態に至った。こうした経緯から大和と武蔵では、過去の実績と技術の蓄積がある鋲止め工法で建造された。

また動力も、ドイツのような高出力大型ディーゼル機関の実用化には至らず、信頼性を重視して従来通りの蒸気タービンを採用。航続距離や速力では目覚ましい性能は出せなかった。

 

完成後は「ホテル」

 

日本海軍最強の戦艦として姿をみせた大和と武蔵だったが、その2艦を最強の座から引きずり下ろしたのもまた日本海軍だった。

1940年11月の英国海軍航空隊(FAA)によるイタリア・タラント港夜襲は、建造に数年かかる高価な「鋼鉄の城」が、脆弱(ぜいじゃく)で安く小さな航空機に大破させられてしまうという、各国海軍関係者の悪夢を現実にした。

この作戦に影響を受けたともいわれる日本海軍の空母機動部隊による真珠湾攻撃で、大艦巨砲主義は終わりを迎えた。

大和、武蔵は巨艦ゆえの豪華な設備で、乗員はハンモックではなくベッドで眠り、クーラーも設置されていた。

燃費が悪いため作戦行動も限られ、連合艦隊旗艦として泊地にとどまり「大和ホテル、武蔵御殿」と揶揄(やゆ)されたこともあった聞く。

そして武蔵は敗色の濃くなった昭和19(1944)年10月、乾坤一擲の「捷一号作戦」に参加。

同24日にレイテ沖海戦で沈没した。

後に沈没する大和は米艦載機の攻撃開始から1時間半余りで沈んだが、武蔵は最初の攻撃を受けてから9時間にわたって奮戦し、約1000人の将兵とともに海底へ沈んだ。

 

引き揚げは困難?

 

70年ぶりに発見された武蔵の注目される今後だが、部品の引き揚げはポール・アレン氏の持つ無人潜行艇で可能とみられるが、大規模な船体の引き上げは極めて困難とみられる。

武蔵は深さ約1200メートルの海底に沈んでいるからだ。

沈船を発見して証拠や貴重品を引き揚げる「レック・ダイバー」を描いた小説「シャドウ・ダイバー」(早川書房)では、光の届かない真っ暗な海底で第二次大戦時のUボートを探索するダイバーらの実話を取り上げている。

減圧症で複数の死者を出しながらも謎の潜水艦の正体を明かそうとする主人公らが挑んだのは、水深70メートル。

以降、飽和潜水の技術は発達するが、1000メートルを超える潜水は例がない。無人探査機を使っての引き揚げ作業も困難とみられる。

 

以上ご紹介が遅れましたが、記憶に残しておきたいと思い「産経新聞」より抜粋しました。
巨大戦艦大和と武蔵。両戦艦とも有名だが、どちらかと言うと大和の方が有名である。

なのに大和は敵艦から攻撃を受けて1時間半余りで沈んだそうだが、武蔵は9時間にも及ぶ激戦で、約1000人の将兵とともに海底に沈んだ記事を読むと、武蔵の方が根性のあるクルーが多かったのでしょうか?
引き上げは非常に困難と思うが、出来ればそのままの形で引き上げて貰いたいです。
ついでにユーチューブ動画もアップして置きます。

 

 

 

参考までに。

 

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